メイです。
お父さん、お母さんのお遍路手記(第三回目)です。
(第3信) 平成27年3月26日 お遍路に行ってきました。
第3回目は、17番 瑠璃山 井戸寺から21番 舎心山 太龍寺までの5ケ寺でした。遠くなるにつれ、日帰りで巡る寺院が少なくなります。とても良い天気に恵まれましたが、山中にある寺院は空気も肌寒く感じられました。徳島の市街地にある「さくら」も一部の枝が開花していましたが、まだつぼみの状態です。でも阿波の国は流石に南国で、もう田植用に水が引かれている水田もありました。
観光バスで巡っていますが、観光は一切しないためガイドさんは居ません。添乗員さんは、巡礼者40名分の「納経帳」・「掛け軸」あるいは「白衣」を大きなカバンに詰め込み、各札所に着くと大急ぎで寺院の坂道・階段を駆け上がり、とにかく他の巡礼バスよりも早く「ご朱印」を印してもらえるように社務所へ急ぎます。ご朱印は僧呂の手書きのため時間がかかります。巡回予定は分刻みに決まっていて、参拝者がその寺院(本堂と太子堂の2カ所)で読経を終わるまでに「ご朱印」をいただきバスに戻らないと、予定が消化出来なくなるからです。もちろんお昼食も移動中のバス内でお弁当です。巡礼に付き添う添乗員の方々はとてもタフな経験者です。
移動中の車内では、添乗員から各寺院の由来などの説明のほかに、お遍路の先達をしてくださる私達の住職の講話もあります。私達庶民は、日々忙しく仕事等に振り回されており、「お寺」というとお葬式や法事のことだけが一番に頭に浮かんできます。それはお寺さんにとってはとても大切なお役目ですが、先達のいろんな講話を通して、お寺を守っている住職には他にもっと大切な「日々の精進・修行」があることに気付かされます。ミクロ的なことでは、檀家の「ご先祖供養」や「無病息災」を願う朝夕のお勤めなど、マクロ的には世界平和を願うなど、多くのことに目を向けていらっしゃいます。このようなことは、当たり前のことですが、お遍路というものに初めて寄り添ってみて、より深く知る(感じる)ことが出来ます。
本日参拝した5寺院の中で、第20番の霊鷲山 鶴林寺は昔は相当な辺地(難所)で、とても近寄り難いお寺であったようですが、今は100人乗りロープウェイで約10分で登れます。
中型バス2台分ぐらいのサイズです
那賀川の川面から100m上空を通ります
那賀川を越え、さらに山一つを越えた山の頂上付近に鶴林寺が立っていました。上空から眺めると乗用車がやっと通れそうな古道を見ることができますが、難所であったことは確実です。
弘法大師は生涯に於いて3つの名前と死後の一つの名前を出世名として得ました。西暦774年に讃岐で生まれ、幼少・青年時代は「真魚(まお)」と名付けられていました。22歳の時、自分で僧名を「空海」と改め、「遍照金剛」の名前は、唐の恵果和尚から灌頂(頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結ぶこと)を受け、密教宗教最後の後継者の阿闍梨となり「遍照金剛」という名が与えられました。「弘法大師」という名前は、空海入定の86 年後921年に、醍醐天皇から与えられたものです。ですから空海本人は「弘法大師」という僧名を知りません。
次回第4回目は徳島県最後の2ケ寺巡り(22番目白水山平等寺と23番 医王山薬王寺で、5月28日(木)です。
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